オイラの最近思うこと

地元企業の社長を支える陰の参謀。

『もし長期の休みが取れたら』へのアンサー

表題の通りのこと、自分自身の事について語りたい。

 

自分自身がこの身をもって感じたのは「休みは要らない」と言う事だった。

 

休んでも休んだ気持ちにならないのでは、休んでいるとは言えない。つまり精神障害を負い、『長期休養が必要』と医師が処方箋を出す。その休養を悩んで過ごしては心は休まらない。本当の意味での休養になっていないのである。

 

敏腕経営者や凄腕ビジネスマンは休むと働くのメリハリが効いていると言う。休む時はしっかりと休むのである。これは鉄則だと私も思った。日ごろ馬鹿みたいに仕事をし、大した仕事量も抱えていないにも関わらず書類の山を前に途方に暮れ、様々なビジネススタイルを試行錯誤した。不要なメールは後回しにしてみたり、電話を取らない時間帯を作ってみたり・・・といったことをしたが、結局は電話を取らないと怒られ、夜帰社後に開いていないメールの多さに時間を割く羽目になり、残業続きになる。残業代はもちろん支払われないのだから、サラリーマンがいかにバカバカしいことをしているかと気づいた。

 

長期にわたって休む(休業すると)と、次の就職口が狭まる。給与が100万円近く年収ベースで変わっていることに気付かない人事や社長はいないだろう。次の給与を決めるベースにも使われる。もちろん税金などの面でも前職の給与明細を提出することになる。何故かと問われると、自分が病欠だった事実を伝える必要性も出てくる。

 

ならばどうすればいいのか?

答えは簡単だ。開き直るしかないのである。自分がうつ病にかかったことを受け入れ、それに対する処方箋を自ら考えるしかない。私は履歴書に休職期間と堂々明記している。突っ込まれても対処できるだけの資料を頭の中にインプットしているからである。面接で問いただされても、堂々突き返すことが出来る。自分の非は認め、改めることで次のステップに進むことが出来る。それを面接と言う場で言葉だけでなく誠心誠意伝えればそれでいいのだ。

 

それには大変なパワーを必要とする。自分自身と向き合い、自分を第三者目線で観なければならない。客観視は人に言われるのは簡単だが、自分を客観視することを受け入れるのは難しいことだ。この『客観視』ができなければ、答えを導くことはできない。

 

表題にもある『もし長期の休みが取れたら』客観視することを推奨する。長期でなくてもいい。少し違う場所で、図書館でもスタバでもいいと思う。バーでもいい。

いつもと違う空間の中で、自らに向き合う時間を作らないと生産性も上がらない。人生のプランはいつでも変更できる。某携帯電話会社みたいに2年縛りもないし、更新月だってあるわけじゃない。

 

かつての高度成長時代は幸せな生活や家族を創造できる世界だった。お金に不自由することもなく、老後は年金でゆとりある生活が保障されていた。その保険がない今、我々に問われているのは一生働く生活である。70歳を迎えても定年ではなく働きながら生活している人が多く居る。その生活が決して悪いわけではないが、本人が幸せなのだろうか?

 

ぼんやりとでもいいから

「50歳でリタイアしてハワイで暮らそう」

「定年退職したらゴルフ三昧だ」

「趣味の旅行を生き甲斐にしよう」

とかあってもいいと思う。

 

一攫千金を狙うのではなくて、具体的な目標がないまま今日(こんにち)を迎えている人が多いのが現代だと思う。私は「ゆとり世代」と呼ばれる世代の第一号だ。この世代は勉強はできない、何にも興味を示さないなどと馬鹿にされている世代だと思っている。事実、勉強もしていなければ地域活動に勤しんできたわけでもない。何かに対して情熱的に、熱心に取り組んできた経験もない。

 

そんな未熟者が社会人になっている。今年の大学入試からは「脱ゆとり世代」向けの問題に変更となるそうである。恐らく諦める者も多く出る事だろう。夢を語る人の多くは夢を目標に生きているのだが、それまでのプロセス(=小さな目標)を踏むことが出来ていない。気づきを書き留めておくのが最近の私の日課となっているが、小さな目標を達成できた事に喜びを覚える為には、書き留めておかなければ振り返りが出来ないのである。自動的にプロセスを経てきているのが脱ゆとり世代の特徴でもあろう。

 

脱線してしまったが・・・

命題への答えは『自分と向き合う時間を作ろう』ということでした。